はだ産婦人科クリニック【札幌市/西区・手稲区】無痛分娩にも対応

産科・婦人科・小児科(新生児)・麻酔科

羽田さん通信

副業

2016年06月03日 | 未分類 | 

2016年6月3日 曇り時々雨sadwink

5月末からまた寒い日々に逆戻りの札幌
昨夜は北海道内で雪が降ったところもあるのだとニュースで言ってました。

ニュースといえば今朝
6日間行方不明だった7歳の男の子が無事に発見されたというニュースがありました。
北海道渡島管内で。
奇跡的だと思いましたが、無事でよかった。

僕も親として子供に悪いことしたらお仕置きするなんて普通にあるけど、その結果が子供行方不明って…
今回の件のお父さんの気持ちになってしまい、不憫でなりません。
何が起こるかわからないですね~

最近、医療とは別の仕事しています。
原稿書き。

開業医の仕事って、医療は当然ながら、病院経営(まじめにやってたら普通はうまくいく・・・と信じてます)、医師会活動などこまごましたことが何かとあるんです。
医師会活動って、医療関係者でない人から見たら何やってるの?って感じだと思うけど、医師会が中心になってやる地域の福祉活動のあっせんやサポート(市民講座や地域の講演会開催とか)。
国や市などの医療政策について議論して意見まとめたり実践したり(ワクチンなんかも医師会経由で自治体から委託されて行ってます)。
地域の病院・医者同士をつなぐレクや宴会の企画などなど
結構いろいろあるんです。

先月北海道医師会の雑誌に原稿寄せてほしいと、持ちまわり仕事みたいな依頼がありまして、ちょっと原稿書きやってました。
夜中に
お題は何でもいいっていうので迷いながらなんですけど・・・
投稿したものが採用されるかはわからないけどせっかく書いたので、この場で勝手に乗せてしまおうかと・・・
長いのでお時間ない人飛ばしてください。
今夜はこれでブログ代わりにします(手抜きっぽいですかね?(~_~;))
 

~4年もたっているけれど・・・南米生活の余韻

始めに、自己紹介させていただきます。羽田健一と申します。
平成25年11月に札幌市手稲区で昭和54年に開業しました父の産婦人科医院を継承し、現在はだ産婦人科クリニック院長として地域の周産期・女性医療の面でお役に立てるよう、日々診療しております。
獨協医大を平成9年に卒業後、市立札幌病院の麻酔科・外科系研修医を経て、同院産婦人科の道に進みました。平成22年から約2年間、少年期からの漠然とした夢であった海外での医療活動に挑戦できる機会に恵まれ、南米の発展途上国パラグアイ(以下パ国)で診療所の一人医者を経験しました。時間ばかりがあったもので、いろいろ思いめぐらすうちに、夢はかなったし、「日本でも一人でやれるか…」と思い、ホームグラウンド市立札幌病院で医療のリハビリをさせてもらった後、妻(小児科医)と2人で開業に至りました。生まれてこの方、父から「跡を継げ」と一度も言われたことのなかった私ですが、現在、手術応援を依頼した時や、開業医の些細な悩みを相談した時などに、父が明るく答えてくれている様子を見て、喜んでくれているのかなと感じたりする毎日です。
さて、私の医者人生の中でのイベントでした南米生活について書きたいと思います。
そもそも何故パラグアイ?と人に聞かれますが、父が45年前に、当時の海外移住事業団(現JICA)の拓いた日本人移住地の診療所医師募集に応募し赴任したのがパ国との御縁の始まりです。私はそこで生まれました。
当時のパ国は舗装道路や電気もなくひどい生活だったと両親から聞かされて、日本の生活からは想像もできない環境に好奇心がわき、いつか行ってみたいと願うようになりました。大学の卒業旅行で初めてパ国を訪れ、丘珠空港のような小さな国際空港、到着したとたんに群がる物乞い、反面広大な農地と大自然に触れ(当時電気はありました)、医者としてここで仕事をしてみたいと思うようになりました。機会を窺っていたところ、パ国大使館を通じ、生まれた診療所の医師を探しているとの知らせを得て、私たち家族は期限付き「南米移住」へと旅立ちました。
パラグアイという国、位置は南米大陸の真ん中。ブラジル・アルゼンチンなどに囲まれた海なし国で面積は日本の1.1倍の農業国です。人口は統計の信用性は怪しいながら650万人くらい。経済は南米で下から2番目といわれる貧困国で、100万人はヨーロッパや隣国に出稼ぎに出て、代わりにヨーロッパ系や日系移民が経済を支えていたりします。気候は、冬は霜が降りるものの夏は40℃を超えます。道端には年中果物がなり、三期作の広大な畑からできる作物で最低限の食べ物には困らず、カトリックが国教ということもあって貧困でも施しを受けるのが当然(?)という文化もあり、現地の人々は貧しい人も明るくノウテンキにさえ見えました。
私たち一家がいた町LaPaz市は人口3200人の小さな町で、日本人が600人強。50数年前に日本人の手で開拓され、今でも挨拶は日本語とスペイン語が飛び交い、市役所の中枢や町の経済は日系人が中心に動かしているとういう、地球の裏側にいてここは日本!?と錯覚するほどの田舎町でした。ただ、週末ともなればFiestaで酔った若者がナイフを振り回したり、拳銃で撃ったり、飲酒運転で大事故起こしたりで、決して治安が良いとは言えない環境。警察は、強盗や傷害事件でも「パトカーに燃料がなくて捜査できない」などと言い訳したり、道路取り締まりでは公然と賄賂を要求するといった始末。
教育では、半日だけの小中学校の授業が、毎週のように先生の賃金要求ストライキで休校になり、現地の高齢者などは文字を読めない人も少なくなく、とても驚きました。文字を読むのも新聞と輸入された本くらいで街には本屋もありませんでした。
医療ではまず医療機器がないし、あっても停電ですぐ壊れる。多くの医者はビジネスで医療を行い、お金がない患者は支払いが保証されるまで診察しない。救急車で搬送した町の病院の救急入り口で3時間待たされたとか、入り口で心肺停止したとか…まったく医者は信用できないといった声が聞かれました。そして保険制度がないから検査はいつも財布と相談後です。金持ちが入る医療保険会社には、受診の度に『この検査していいか』と問い合わせ許可待ち。(これぞ皆保険崩壊後の未来社会?)
パ国の驚きの生活についてはまだまだ紙面が足りません・・・。
それでも、「もう少しここにいてもいいな」と思えるくらいに、日本の様な行き過ぎたマナーや道徳、そして情報に縛られない『自由』がありました。『(自己)責任』も…
振り返れば、いろんなことで日本の良さも悪いところも見えたような気がする2年間だったと思います。
日本に帰ってきて早4年。
日常診療で時々、「頭の良い」日本人がインターネットにかぶりつき、集めに集めた情報で、『先生、○○ってやっていいんですか?ネットにダメって書いてたんですけど…』と不安気な顔をするのを見ると、執拗に知識を求めず、流れに身を任せ、能天気に生きている方が幸せなんじゃないか?と思うことがあります。(これこそパ国に見習うべきところ?)
日々の臨床や患者さんとの出会いは楽しいですが、こう感じるのも一つの郷愁の念なのか?
今は日本人らしく!目の前の患者さんに精一杯当たっていこうと誓っている開業3年目です。


最後までお付き合いいただきありがとうございました
 

“副業” への2件のフィードバック

  1. より:

    去年お世話になった者です(^O^)
    頭の良い日本人。その通りですね!私は必要最低限の情報だけ調べて、後は適当でした☆
    先生にも「それくらいで良い!初めての妊娠なのに落ち着いてるね(^w^)」と言われました!笑
    懐かしいです!
    来年もお世話になるかもしれないのでよろしくお願いします★

    • hadasan より:

      弘さん コメントありがとうございます
      本当に,幸せな日本で生活できているのに・・・と思うことしばしばです
      (´・ω・`)
      次も良い子が授かりますように・・・
      お待ちしています!

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